アラフィフの人生を振り返る

よくいるアラフィフな人のブログです。

ある日突然、ピアノが登場

新宿区のマンションに引っ越ししてからしばらくして、我が家にピアノが届きました。

 

そうです。chirikoピアノをはじめました。

なんで、どうしてそうなった。

記憶を掘り起こすとポツポツと断片的な出来事が思い出されます。

 

ある日突然母に連れられて、木や花がたくさん植わっている古びたお家に妹と一緒に連れて行かれました。

1階は病院で2階の部屋に案内されると、そこには優しげな女性がいてまずは「お姉ちゃんから」と私をピアノの前のイスに誘いました。

で、言われるがままになにかを弾いた気がします。

その女性はピアノの先生だったんですね。

母なのか先生なのか、どちらかに聞かれたんでしょうね。

「ピアノ習う?」って

物珍しいものが大好きな私はもちろん、「やりたい!」って即答です。

 

次は妹の番です。

妹の返事は「私やだー。やりたくない」でした。

嫌がる妹の顔となんとも言えない表情の先生の顔、気まずい母の顔、そのシーンは今もハッキリ脳裏にやきついています。

とはいえ結局、妹は数ヶ月遅れでピアノを始めてましたけどね。

 

で、いつの間にかピアノが我が家に置かれました。

あのピアノ、エレベーターで運んだんだろうか。それともベランダから入れたのだろうか。

そこは全く覚えてないなあ。

そんなこんなで年長さんからピアノを習うことになりました。

今、記事を書いていたらスイミングにも通っていたことを思い出しました!

そうか、あの頃習い事2つやってたんだなあ。私。

 

この2つ、2年くらいで辞めることになるんですけどね。

それはまた記事にします。

 

 

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アラフィフchiriko宅には猫がいます。

ニャイキTシャツ気になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミスったサンタクロースへのお願い

今日は涼しかったですね。

暑さのピークが過ぎて秋に近づいてきましたね。

 

幼稚園時代の出来事、またひとつ思い出しました。

4、5歳頃といえばサンタクロースの存在を信じているお年頃ですが

なぜか私は親がサンタクロースなのを知っていました。

なぜなら、幼稚園の砂場で遊んでいる時、一緒に遊んでいた男の子から言われたんです。

「サンタクロースってほんとはいないんだよ。親なんだぜえ」と

純粋な私の心をぶっ壊してくれました。

なのでかなり早い時期からサンタクロースは両親なのだとわかっていました。

 

年長さんのクリスマス

初めて新宿区のマンションで迎えるクリスマス

母親に「サンタさんへ手紙を書こうよ!」って言われました。

よくある手ですね。

あらかじめ子供のリクエストを聞いておけばプレゼントを用意できますもんね。

 

5歳の私のサンタクロースへの手紙の内容はというと

「サンタさんへ chirikoは国語辞典が欲しいです。」でした。

なんで5歳児が国語辞典を欲しがるんでしょう。

そんなにお勉強が好きだった?

いえ、違います。

母親にそそのかされたんです。

「chirikoは辞書がいいんじゃない?」って。

辞書なんてなんなのか理解できてなかったけど、母親が言うからきっとなんか素晴らしい物なんじゃないかと思って辞書を希望しました。

その頃、年長さんだったので翌年からは小学生

きっと勉強が始まったら使うだろうと母親が思いついだんでしょうね。

母の思惑に5歳児はまんまと乗せられてしまいました。

 

クリスマスの当日、ワクワクしながらプレゼントを開けるとそこには国語辞典が。

朝からガッカリしました。

だって、やっとひらがなが読み書きできるくらいの5歳児ですよ。

普通ならリカちゃん人形とかおままごとセットとか、おもちゃが欲しい年頃です。

国語辞典をもらったって使いようがないじゃないですか。

プレゼントを前に泣きべそかいた覚えたあります。

ベソかきながら、内心、母に騙されたーーって思ってました。

手紙を書いたことを大後悔した記憶があります。

翌年からは欲しい物をリクエストしました。

2度と同じミスはするもんかって。

 

私には妹がいますが、妹はおもちゃかなにかもらってたような気がします。

めちゃくちゃうらやましかった覚えがあります。

 

子供にとっては一大イベントのクリスマスの朝に娘が泣いているのを見て

母親は何を思ったんでしょうかね。

悪いことしたな。とちょっとは思っててくれるといいなぁ。

 

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そういえば、宅配クリーニングがそろそろ戻ってきます。

ここ数年は冬物は保管クリーニングに出しています。

クローゼットもすっきりするしオススメです。

 

 

お誕生日会の思い出

台風、なかなか去ってくれないですね。

雨、風で被害が広がりませんように。

 

新宿区で暮らしていたころの幼稚園時代の思い出で、ブログを書きながら思い出したことがあります。

5歳の誕生日でした。

母親が「友達を家に呼んで誕生日パーティをひらこう!」と言い出しました。

パーティなんてキラキラした事ができるなんて、嬉しくて

私は幼稚園で友達に声をかけまくって家に招待しました。

たぶん、7〜8人は呼んだ気がします。

うすらぼんやりですが、招待した友達に「プレゼンとは何が欲しい?」って聞かれて

「ぶどう!」「なんとかキャラクターのえんぴつ!」とか言った気がします。

我ながら図々しい幼稚園児。

 

誕生日会とはいえそこは5歳児、お菓子食べて友達とワイワイぎゃあぎゃあ遊んでるだけでした。

が、ここで事件が起こります。

私にではなく、母親に

 

もう名前は忘れちゃったけど、ある女の子が母に言ったんです。

「ねえ、プレゼントのお返しってなあに?」

 

母、度肝抜かれたそうです。

母にとって長女の私は初めての子、子どもの通過する行事は母にも初行事なわけで。

誕生日会に招待し、お菓子やケーキ、食事を振る舞うだけで充分だと思ったらしいです。

慌てた母はまだ5歳の私をこっそり呼んで伝えました。

「○ちゃんにお返しは何?って聞かれちゃった。お返しなんて用意してない。

するもんだなんて考えがなかった。今からお返しを買いにいくから待ってて!」

 

で、慌ててお返しとして買ってきたのは花火セットでした。

まあ、みんなの持ってきたプレゼントに対して妥当な金額だったのと

すぐに近場で調達できるの物が花火しかなかったんだろうな。

45年前の話しですからね、コンビニもなければかわいい焼き菓子が売ってるケーキ屋なんてないですから。

いまなら駅前のショッピングモールとかでお返しにふさわしい物がかんたんに手に入りますが、昭和50年の初めころなんてそんなもんでした。

 

今でもこのことを思い返すとほんのり胸が痛むんです。

誕生日パーティをひらくと言い出した母がお返しを準備することを知らなかったこと

慌てて買いにいく様を私に見せたこと

子供ながらに世間では当たり前のことを知らなかった母親が恥ずかしかった記憶があります。

 

母も新宿の新築マンションの上階で暮らしはじめたこともあって、都下の畑ばかりの町から抜け出せてあの頃は浮足だってたのかもしれませんね。

娘が喜ぶだろうと誕生日パーティを企画してくれたことは感謝しなければいけないことですが、感謝の前に恥ずかしさのほうが胸に広がってしまう私です。

お母さん、ごめんねえ。

 

とはいえ、母親のやらかしは今後もいろいろとあるんですよ。

 

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スーパーセール始まりましたね。

プリュの炭酸ミストは香りも使い心地もいいので何本もリピートしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幼稚園の転園

台風、心配ですね。

今夜は来客の予定があるので、雨風がひどくならないことを願っています。

こんにちは、chirikoです。

 

親の都合で都下から新宿区へ引っ越ししたため、chirikoは幼稚園に転入しました。

のどかな田園風景の中にある大規模幼稚園と違って、都会の幼稚園はビルの隙間にありました。

園児の人数も以前と比べると1/3くらい。

そこの幼稚園には年長さんになる4月に転入。

Google Mapによると引越し先のマンションから幼稚園までは徒歩9分だそうです。

5歳児の足では倍以上かかったんだろうな。毎日遠いなあ。と思いながら登園した記憶がうっすらあります。

 

新たな幼稚園はとても楽しかったです。

都会の幼稚園だったため、園庭はこじんまりしていましたがお隣が小学校だったので

たまに小学校に遠征して鉄棒や砂場で遊んだ記憶があります。

友達もすぐにできたし、彼らの記憶も残ってます。

残念ながらこの年まで続く縁にはつながらなかったけど、男女問わず走り回って遊んでたなあ。

 

特に仲が良かったのはAちゃん。(Aちゃんだけはうっすら今でもつきあいがあります。)

Aちゃんママと私の母親も気があったらしく、家族ぐるみでお付き合いしていました。

Aちゃん宅と我が家は徒歩3分の距離でもあったので、うちでもAちゃんの家でもよく遊んだなあ。

うちは姉妹でしたが、Aちゃんには2歳下の弟がいたので4人揃って遊んでました。

 

Aちゃん姉弟以外では、同じマンション、近所の同じ幼稚園の子たちともよく遊んでいました。

幼稚園の同級生に駄菓子屋を営んでいるお宅があって、10円握りしめて通ってました。

駄菓子屋の存在を知ったのもその頃です。

いまも、あるのかな。あの駄菓子屋さん。懐かしいなあ。

 

運動会、お遊戯会、お誕生日会など、いろいろな行事を経て1年が過ぎ引っ越しから1年ほどで小学校に入学することになります。

小学校1年の頃から父親のせいで私達家族の運命が大きく変わって行きます。

 

いまも、あの事がなくあのまま新宿区で育っていたら私はどんな人生を歩んでいたんだろう。とごくたまに考えることがあります。

平和で穏やかな幼稚園時代でした。

 

 

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自宅でできる脱毛器「ケノン」

サロンと自宅の併用でつるつるになりました。

おヒゲがあった思春期に、これがあったらなあ。

 

 

 

○○がある子供

こんにちは

最近、こんにちはが「こんにちわ」になってる人を見かけることが多いです。

その度、もやもやしてます。chirikoです。

 

さて、私の人生、新宿区編を始めますね。

この辺りから母親にお使いを頼まれるようになりました。

chirikoはじめてのおつかい。

一人ではなくすぐ下に妹がいるので、毎度妹を引き連れてました。

 

あの日は妹と2人、ピーコックにお使いに行かされました。

何を買うかまるっきり忘れてますが、ブログ上「お醤油」ということにしておきます。

で、お醤油を探すんですが未就学児2人にはお醤油を見つけるのはハードルが高すぎた。

母親には「スーパーで見つからなければ店員さんに聞きなさいね。」と言われたので

まじめな長女の私は店員さんに訪ねましたよ。母親に言われたとおりに。

 

c「すみません。お醤油はどこですか?」

 

パーマヘアで目がぎょろっとしたお兄さんにドキドキしながら訪ねました。

今でもこの店員さんのお顔、くっきり脳内に映像で保存されてます。

 

緊張して声掛けしたけど、ぎょろ目のお兄さんはお醤油売り場に案内してくれました。

優しいね。ありがたい。

妹と2人、お礼を言いました。

するとぎょろ目のお兄さんに半笑いでこう言われたんです。

 

ぎょ「ねえ、2人ともヒゲ生えてるねえ」

 

はい、姉妹そろって口元にうぶ毛生えてました。けっこう濃い目の

ヒゲ、生えてたんですよ。姉妹そろって。

 

この頃ですね、口元にヒゲが生えてちゃおかしいことに気がついたのは

ネガティブな事なんだと。恥ずかしいことなんだと、ハッキリと自覚しました。

某、亡きお母様が有名歌手で16歳でR&Bで衝撃のデビューを果たした

現在ロンドン在住の歌姫をご存知ですか?

彼女の幼少期の写真をネットで見たんですが、まさに生え方が私達姉妹にそっくりでした。

あの写真をネットで見た時、自分のことのように恥ずかしくてやめてあげてーー!って心の底から思いました。

 

口元のヒゲについては、後に自分で処理しました。

剃ったり脱いたり。

幼稚園、小学校時代はこれでよくからかわれてイヤな思いをたくさんしたので、ヒゲが生えてる娘を持つ親御さんがいたら早めに対処してあげて欲しいな。と思います。

 

大人になってからは、永久脱毛しました。

顔以外もワキ、手足、Vラインなんかもやりました。お陰様でいまはつるつるです。

ごくたまに、うっすら生えてくる毛は自宅でできる脱毛器で処理してます。

昔はサロンで高額支払ってやってたけど、いまは気軽で便利になりましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生初の引っ越し

ブログの書き出しに15分くらい悩みました。

こんにちは、chirikoです。

天気の話にするか、前回記事の内容に触れるか迷って結局「書き出しに迷った」で今日の記事を始めることにしました。

 

こんにちは、chirikoです。(意味なく2度言います。)

 

さて、私の最古の記憶、幼稚園年中さん時代で触れましたが5歳頃に引っ越ししました。

理由は父親の勤め先が変わるから、通勤しやすい近所に住もう!ってことになったらしいです。

この辺も両親からなにも説明なかったなー

ある日なんだか突然、都下の平屋の家から都心へのマンションへお引越しした記憶しかないです。

引っ越し当日のことも初日の夜のこととか、全く記憶にないなぁ

 

そうそう、マンション名覚えてたのでググったら引越し先は新宿区だった!

むちゃくちゃ都会!都下の畑と庭を掘ればミミズやオケラが出てくる平屋とは全然違う世界!

あ、部屋は7階建ての6階の部屋でした。

見晴らしも良い!

って言ってもなんせそこは新宿区なので、ベランダからの眺望はお向かいのマンションの共用廊下が見えてただけだけど。

 

そういえば、引っ越し当日とか、マンション初めての夜とかまったく覚えてないなー

そもそも、「引っ越し」がなにかもわからなかったんだろうな。

引っ越して幼稚園を変わることとか、友達とお別れすることとか、親から一切はなしはなかった気がします。

相変わらず「4,5歳に説明したところでわからないだろう。引っ越せば子供の順応性ですぐに新しい土地に馴染むだろう」という考えだったんだろうな。

今から思うと、「いや理解できずとも、心構えができるくらいの話しはしてよ」と思いますけどね。

 

しかしきっと、当時の母親はテンション高かっただろうな。

新築のマンションだったし、当時それなりの高層階だし

なんたって新宿区だもんね。

 

でもここでの生活は2年くらいで終わっちゃいました。

その辺のお話はまた後日。

ちょっとだけお話するとすれば、ここで私の人生のコースが確定した。ってことだけお伝えしておきます。

 

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ブログを書きながら掃除終了!

掃除ロボットは購入して一番よかったと思うアイテムです。

 

 

 

 

最初の記憶

ブログ開設した途端、所用で忙しく放置気味になってしまいました。

当初は毎日投稿を目指してたんだけどな。

ダメだな。こりゃ

 

さて、アラフィフchirikoですが物心がついた頃の最初の記憶から綴っていこうと思います。

ごく平凡ですが、お付き合いください。

 

chirikoが爆誕したのは、今から50年程前です。

東京出身、東京育ちです。

最初は東京都下で両親、妹と平屋に住んでました。

記憶に残る映像は、どこまでも広がる畑。

今みたいな道路はアスファルトもあったけど、どちらかと言うと家の周辺は踏み固められた土の道路と砂利道だった記憶です。

 

そして、家の近所に畑

畑を横切ると(今考えると不法侵入)幼稚園がありました。

年中さんだったので、4歳くらいかな。

黄色い帽子と黄色い斜めがけバッグでお弁当持って通っていた記憶です。

自宅から歩いていける距離だったので、徒歩で通園していましたが幼稚園バスで通園する子供もいましたね。

当時の私には幼稚園バスはあこがれでした。

 

よく遊んでいた子は家の近所の子どもたちでその中に同じ幼稚園の子はいたかなあ?

脳みそ振り絞って考えてみましたが、幼稚園の中で近所の子と一緒だった記憶がないんです。

もしかしたら殆どの子が幼稚園には通っていなかったのかもしれません。

 

しかし、幼稚園には楽しい記憶がないなあ。

思い出すと、ある日突然制服に着替え、帽子を被せられ母に連れて行かれた記憶しかありません。

おそらく母は3,4歳の子に説明しても意味が理解できないと判断して

放り込んでしまえば子供ながらに楽しめるだろう。って考えだったんでしょうね。

この後つづく記憶の中でも、母が私になにかを事前に説明してくれることってほとんどなかったな。

いま思うと、4歳であっても理解はできずとも事前情報はくれてもよかったんじゃないかなあ。

突然行かされた身で毎日が不安で仕方なかった覚えがあります。

 

当時、幼稚園のクラスの名前や先生、お友達の名前は全く記憶も印象もないですね。

引っ越しすることになるので、1年しか通わなかったせいもあるのかな。

その件についてはまた今度。

実は私の人生、この辺りから大きく変わっていくんだよな。

 

では、また!