アラフィフの人生を振り返る

よくいるアラフィフな人のブログです。

また引っ越し

事前に話があったのか、なかったのか。

全く覚えていませんが、chirikoファミリーはまた引っ越しをすることになりました。

引っ越し前のことや当日のことはまったく記憶にありません。

ある日突然、新しい家で暮らし始めました。

 

新たな住処は杉並区の2Kのアパートでした。

マンションの上階暮らしから2階建てのアパートの1階。

ピアノも無くなりました。

子供心にレベルダウンしたのをヒシヒシと感じていました。

当時はわかっていませんでしたが、父の仕事がうまくいってなかったので

経済的に新宿区のマンションで暮らしていくのは難しかったのでしょう。

都会暮らしは2年で終了。あっという間でしたね。

 

どうしてこの地に来たのか、なぜ転校するのか、スイミングもピアノも通わなくなったのはなぜなのか。何も知らされませんでした。

引っ越したのは3月初めだったので1年次は母に連れられて新宿区の小学校に電車で通っていました。

慣れない電車通学だったので、修了式当日に熱を出して欠席。

友達に最後の挨拶もできずに新宿区の小学校とお別れしました。

(なんか書いてて悲しくなってきたな〜)

 

4月からは杉並区の公立小学校に転校することになりました。

ただ、なんとなく転校することは少しだけウキウキしていたような気がします。

わりと前向きな性格なので。何事もポジティブに捉えていたようです。

 

 

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お金をください。

3連休でしたね。

夏季休暇の取得期間が7月〜9月だったので、1日休みをプラスして4連休してました。

天気がよくなかったのでウチでのんびりしていました。

 

季節がいつだったのかはあまり覚えていませんが、いつの間にか楽しかったマンション暮らし、家庭内がざわざわしてきました。

この頃の私はいつも不安の中にいたような気がします。

 

ある日、母に連れられて妹と3人で父の店に行きました。

美容師だった父は独立して青山で美容院を経営していました。

でもその頃の私は父が美容師なことはわかっていましたが、店を経営していたことはわかっていませんでした。

 

父の店には母娘3人で何度か行った記憶があります。

後に母親から聞かされたのですが、生活費を父がくれなかったので子連れで「お金(生活費)をください。」と訴えに行っていたそうです。

 

父の店はあまり流行っていなかったようです。

営業時間中の店に行ってもお客さんがいた時はなかったと思います。

まあ、今考えると父は不倫してたし愛人とのお金が必要だったんだろうなあ。

そっちにお金を使ってたんだろうなあ。

 

両親は娘の前でケンカをすることはなかったので、二人がうまくいっていなかったことは気がついていませんでした。

母がなるべく娘たちに悟られないようがんばっていたのかな。

それでも家の中のギスギスした空気は感じていたので、よくわからない不安の中にいたような気がします。

 

新宿区でのマンション生活に終わりが近づいてきました。

それはある日唐突に訪れました。

 

では、また。

 

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父との思い出を箇条書きする

 

 

台風は温帯低気圧に変わったそうですね。

しかし、影響を受けてか今日の東京もグズグズとした天気です。

 

小学校1年生、6歳のときに発覚した父親の不倫

この後の出来事を綴ろうかと思いましたが、今日は父との思い出を書こうと思います。

そう、思い出です。

思い出、思い出……

思い返すんですが、父親とのストーリーが全くと言っていいほど出てきません。

思い浮かぶのは一瞬だけを切り取った会話や写真のような映像ばかり。

なので、そんな一瞬の出来事を箇条書きにしてみます。

 

・新宿区へ引っ越す前、家族で出かけた帰り道、夜で眠かったのでおんぶしてもらったこと

・マンションに引越し後、ステレオを買った父がレコードをかけてその曲に合わせて父の前で私が踊ったこと

・ピアノのレッスンに行くのがイヤで泣いていたら、「ちゃんと行きなさい」と怒られたこと

・家族でショッピングに出かけて赤いダウンジャケットを買ってもらったこと(当時、子供が着るのは珍しかったようで、ママ友達から口々に褒められた)

・家族で銀杏並木に散歩に行き、帰りの公園で父に甘えたこと

・仕事でNYに行ってきたよ。馬車が走っていたよ。言っていたこと

・電車で江ノ島に海水浴に行き、日焼けしすぎた父が翌日しんどそうにしていたこと

・父はヒゲもじゃだったこと

 

ううむ、箇条書きにしてもこんなもんです。

ぶっちゃけてしまうと、両親は離婚するので父親と過ごした時間はとても少ないです。

そうなると父親との思い出なんてこんなもんなんですね。

でもこの頃の私、父親のことは好きだったと思います。

いろいろなことがあって、だんだんと距離を取りたくなるんですけどね。

 

ああ、そうだ。一番大事なことを忘れていました!

私と妹の髪の毛は父がカットしてくれていました。

私の父、美容師だったので。

 

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我が家には猫がいます。おトイレ掃除に必須な防臭袋

 

深夜に叩き起こされる

九州地方のみなさん、台風は大丈夫でしょうか。

ご自愛ください。

 

前回、記事にした『正妻 VS 不倫相手』

その日の後か前か、記憶が定かではないのですがある日の深夜こんなことがありました。

 

「chiriko 妹ちゃん、起きて!起きて!」

ぐっすり眠っていたところを母親に叩き起こされました。

 

何事かとぼうっとした頭で起き上がると

そこにはパジャマではなく、服を着た母がいました。

「お母さんと一緒に出て行こう」

こんな感じのことを言われた気がします。

 

母親越しには布団の上に座る父親が見えました。

深夜何時頃だったかはわかりません。

ただならぬ、緊迫した空気が家中に漂っていたことを感じました。

母は私と妹をパジャマから洋服に着替えさせようとしていました。

どちらが先に泣き出したのかわかりません。私と妹は泣き出しました。

 

「出て行きたくない!怖い!嫌だ!」そんな感じで泣きました。

その時の感情は覚えています。

今まで感じたことのない不安を一気に感じ、その不安のせいで泣きました。

あと、ちょっと眠っていたところを起こされて眠すぎた。というのもありました。

 

泣き出す私と妹をみて母も考え直したのか、その夜は家を出ることはなく

不穏な空気を抱えながら家族全員、一緒に眠りました。

翌朝のことは覚えていませんが、この頃から毎日なにか不安にかられながら生活していた記憶があります。

 

この出来事ですが、これも私の推測で、父親の不倫を知った母が仕事から戻った父を攻め

「こんな家、子供を連れて出てってやる!」ってのをやったんでしょうね。

深夜だった気がするので、出たところで電車も走ってないワケで

「私は本気よ!許せない!!」を父親に対してアピールしたんだろうな。と考えています。

なんとなく、寒かった覚えがあるので冬の出来事だったのかな。

 

こうしてどんどん、私を取り巻く環境が目まぐるしく変化していきます。

続きは、また。

 

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ふるさと納税、今年もシャインマスカットにしました。

 

ワンレンロングのお姉さん登場

シルバーウィークが始まりましたね。

3連休とっても嬉しいですが、台風が心配です。

 

シャワー後にピーリングをしました。

これを使い始めてからいちご鼻がきれいになりました。

オススメです。

 

新宿区の公立小学校での思い出。

思い返そうとがんばってみましたが、ほぼゼロでした。

運動会も遠足も初めての授業も色々あったはずなんだけど記憶にないなあ。

あ!担任の先生が女性で私と同じ名字だったことを今思い出しました。

ハスキーボイスのはきはきした感じでした。

学校の思い出といえばこれくらいです。友達のことも印象にないなあ。

新宿区の小学校には1年しか通わなかったせいもあるのかも。

 

この辺りから私達家族に変化が訪れはじめます。

ある日、自宅マンションから数分の公園で妹と遊んでいました。

よく晴れた日でした。

季節は春だったのか、秋だったのか。思い出せません。

 

その公園で突然、お姉さんに声をかけられました。

「chirokoちゃんと妹ちゃんでしょ?」

 

その女性はchirikoの生活圏内では一度も見かけたことがない、洗練されたきれいな女性でした。

黒髪ワンレンロングですらっとした雰囲気の女性でした。

 

そんなきれいな女性と接したことがなかった私達姉妹は声をかけられたことを不思議とも思わず、怪しむこともなく、むしろきれいなお姉さんだ。と嬉しくなってしまい

「うん。そうだよ!」と答えました。

 

その後の記憶は自宅マンションのテーブルで向かい合う母とお姉さんの映像しかありません。

ということは、私達姉妹がその女性を自宅マンションへ案内したということですよね。

なんとなくですが、家の場所を聞かれて連れていった記憶があります。

 

母と女性が何を話していたのかは全くわかりません。

なんとなく、母の知り合いにしては種類の違う雰囲気の女性だな。とは思いましたが

友達なんだろうな。とおめでたい私は考えていました。

 

カンの良い方はその女性が誰かわかりますよね。

はい、ワンレンロングのお姉さんは父親の不倫相手でした。

そのことがわかったのは、ずっと何年もたってからです。

誰かから聞いたワケでもなく、大人になってからある日突然、その時の映像がフラッシュバックし「あぁ、あれって正妻VS不倫相手の修羅場だったのかぁ」と一人納得したんです。

 

もう一つ印象に残っているのは、母がその女性を前にして私に言ったことばです。

「知らない人とお話しして、家に連れてくるなんてダメよ。悪い人でさらわれちゃうかもしらないからね。」と笑みを浮かべて言ってきたことです。

今思えば、不倫相手に対して精一杯のイヤミを言ったんでしょうね。

 

こうして少しずつ、私達家族に変化が現れてきました。

新宿区での暮らしも終わりがみえてきたようです。

では、続きはまたこんど!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校入学の思い出

今日は爽やかで涼しいお天気。

セミの声もほとんど聞こえなくなりました。

秋が近づいてきてますね。

 

そろそろ小学校での思い出を記事にしたいと思います。

幼稚園の卒園の思い出はほとんどないし、大した出来事もなかったので

小学校編がスタートです。

 

新宿区の公立幼稚園を卒園した後、小学校へ入学しました。

幼稚園と小学校は隣同士だったので、通学ルートは変わらず。ある日突然ランドセルを背負って、なんだかソワソワしている母に連れられてワケもわからず足を踏み入れたように思います。

 

ランドセルを買いにいった記憶もうっすらありますが、特筆すべきことはありませんでした。

入学式の記憶、これはまったくありません。

あるのは、クラス分けの掲示板の前で仲良しAちゃんと別々のクラスになったことを母から告げられたことと、Aちゃんと離れ離れでがっかりしたことくらいです。

新宿区の公立小学校は学年2クラスしかなく、生徒もそれぞれ20人くらいだったと思います。

ベビーブーム世代で2クラスって少ないですよね。推察するに地域的なものなんだろうなぁ。

 

初めて入った教室では、各自の座席に名札が貼られていました。

ひらがなは読めるとはいえ、漢字はまだった私なので座席は母が探して「ここだよ。ここに座ってね。」と言われるがままに指定された席に座りました。

座席は一番前でした。

子供って一番前とか好きじゃないですか。

なので前の席に座るのが嬉しかったのですが、すぐにその嬉しさは落胆に変わりました。

 

母が別の子の名前の席に座らせたんですよ。

はい、母がやらかしました。

嬉々として座った瞬間、母に「あ!ここじゃなかった!あっちあっち!」って腕を引っ張られて別の席に案内されました。

自分の子供の名前を間違うってなんなんだろうなー

こういった、母のおっちょこちょい振りには幼少期から振り回されてました。

入学式でも発動してましたね。

 

正しい席は一番うしろ。

今考えれば、最初の席は名簿順だったんです。

私の姓名は50音順の後のほうだったので、当然後ろの席になります。

一番前から一番後ろです。子供ながらに初日から転落を味わいました。(大げさ)

 

因みに私は背が高かったので、背の順でも一番後ろでした。

名簿順でも後ろ、背の順でも後ろ。

小さい子って自分とは違うことになぜか憧れを抱くので、前に並ぶことに憧れを抱いてましたね。

成長するにつれて、先生から離れた後ろの席や並び順が大好きになりましたけどね。

 

そんなこんなで、新宿区の公立小学校生活がスタートしました。

そういえば、父って入学式に来てたかしら?

なんとなく写真くらい家族で撮った気もするんだけど、教室には一緒に来てなかったなあ。

この辺りから父親の存在は私の中で薄れてきます。

いろいろあったからね、意識的に記憶から抹消したことも関係あるのかしら。

 

では、また。

 

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秋冬に取り入れたいバルキーニット

 

 

ショート丈も

 

 

 

 

 

 

 

 

chiriko いやいやスイミングスクールに通う

あれ?なんか今日は蒸し暑くないですか?

やっと過ごしやすくなったと思ったのになあ。

さらに、数日前からホットフラッシュも始まったようです。

あ〜あ、年に1度くらいの頻度であるのですが、つらいですよね。ホットフラッシュ。

仕方がないので漢方飲みます。

 

ピアノを習い始めたことを思い出したら、水泳を習い始めたことを思い出しました。

幼稚園から小学校1年生まで、スイミングスクールにも通ってました。

これもある日突然、母親に連れられて電車に乗ってとなりの駅のスクールに行くことになってました。

これは「習う?」とか聞かれた覚えが全くありません。

ある日突然プールに放り込まれた感じです。

 

昭和50年前半のプールって子供仕様とかなんてなくて、大人用の50メートルプールで

当然、幼稚園児の足なんて届きません。

ただただ、怖かった思い出。

しかも、自分でやりたかったことじゃないし、なぜプールに行くのかも理解してなかったからイヤでイヤでしょうがなかった記憶があります。

 

毎回泣いてるかベソかいてるか。

水泳の先生も怖かった記憶があります。

幼稚園児だったので、泳ぎを教わるレベルじゃなくて顔がつけられるようになるとか

足が届かないプールだからか、腕にはめる浮き輪みたいのをつけられて、プールのヘリに掴まってバタ足とかしてたような。

 

そうそう確か、同じ幼稚園の子も数人同じスイミングスクールに通ってました。

プールも泳ぐのも先生も怖かったけど、友達がいたのだけが救いでした。

が、その友達も違うスイミングスクールに変わっちゃったんです。

近所に新しくスイミングスクールができたらしく、私以外全員そこのスクールに通いはじめて、ある日突然みんなが来なくなりました。

 

唯一の救いの友達がいなくなって、一人だけ大嫌いなスイミングに通うなんて本当に辛かったです。

「私もみんなと一緒のスクールに行きたい!」って母に言ったのを覚えてます。

それに対しての母の返事は「No!」

ロッカーで一人で水着に着替えながら泣いてたな。

 

まあ、スイミングスクールを変われなかった理由は大人になった今ではだいたい想像できますけどね。

当時の母に言いたいです。

幼稚園児で納得はできなくても、理解はできなくても、せめて説明はしてほしかった。

どうしてスイミングスクールに通うことになったのか。

どうしてスイミングスクールを変えることができないのか。

 

うちの母親って子供に説明や優しく諭すってことをしない。もしくはできない人でした。

きっと言ってもわからないだろう。で進める人でした。

もし私が母親になっていたら、どんなに子供に通じなかったとしてもせめてイメージだけでも思い描けるよう、お話しはする母親になっていたかったなあ。

 

ピアノと同じで水泳も2年くらいで辞めることになります。

幼少期で水に対する恐怖心を抱いたのでその後何年も水泳が大嫌いでした。

さすがに今は適度な運動と健康のために泳いだりはしてますけど。

 

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そろそろ新米のおいしい季節ですね。

千葉県のお米がお気に入りです。